プロフィール

Author:Seasidecity
【所属】
公益業

【属性】
思想的なスタンス
→サブカルテツガクセカイ系
政治的なスタンス
→社会民主主義・第三の道

【性質】
「私」にまつわる謎と「世界」に
まつわる謎を考え続けています。

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海の見える街
伝える気持ちが世界を変える
まーた始まったよ。
死ぬ死ぬ詐欺。
いい加減死にたい。
死ぬ勇気があれば…
季節
なんとなく思い出してみるだけでも季節と結びついた作品が多い。
エロゲで言えば、春は銀色、暖かさと暑さの端境期はSense Off、
そして盛夏はAIR。
作品が孕む不思議な季節感は一抹の寂寥感とともに心に届いたりする。
終末のフール 各論その2
第5話「鋼鉄のウール」
「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」
キックボクシング道場に出入りする人間模様から、
今の生き方を強烈に問い直すお話。
この話は細部のディテールが本当にどうでもいい話。
もう本当に冒頭の一言にすべてが凝縮されている。
そしてこの言葉に続くのが、
「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」
この言葉の重みは絶対に忘れないでおきたい。

第6話「天体のヨール」
「俺は自分で納得するために復讐をした」
妻を殺され自殺を図る男がかつての親友と邂逅し、
自分の気持ちに正直に“生きる”ことを決める話。
人の心が、気持ちが、善意が悪意が世界を変えてしまうという
ある意味で籠城のビールと間接的につながる物語。
ラストの処理は秀逸。許しの話は演劇のオールに続いていく。

第7話「演劇のオール」
「許しを乞う相手すら思い浮かばない」
演劇の夢破れた女が様々な人の家族役を演じることで
家族の関係性を再発見、再構築していく話。
この話は非常に重層的であり、複雑であり、単純である。
枠組みとしては「家族計画」であるが、世界観はまったく異質。
途中に出てくる俳優の人生はオールを漕ぐようなものであるという
一見意味不明な言葉も、
家族全員(オール)でオールを漕がないとボートはまっすぐ進まない
という解釈であれば意味が落ちてくるだろう。
家族を演じていた主人公が本当の家族になっていく展開は
鳥肌モノの感動であろう。

最終話「深海のポール」
「死ぬより怖いことはたくさんある」
すべてのエピソードはこの話に向かって収束していく。
第1話で描いた親の愛を、
第2話で描いた懊悩の価値を、
第3話で描いた悪意への対処を、
第4話で描いた現実への希望を、
第5話で描いた生き方への執着を、
第6話で描いた自分への納得を、
第7話で描いた関係性への信頼を、
そして、全エピソードで描いてきた家族像を、
すべて坩堝で混ぜ、溶かし合わせてひとつになったとき、
きっと櫓は深海に立つポールとなるのだろう。
終末を生きた者たちの墓標として。
終末のフール 各論その1
第1話「終末のフール」
 「わたしは簡単には許さないですから」
老年に差し掛かりつつある夫婦が、勘当された娘の帰宅に際して、
自殺した息子を軸として関係性を再構築する話。
一文でまとめてみるとこんな話だが、まさに物語のはじめにふさわしいストーリー。
ネタバレになってしまうが、妻の発した冒頭の言葉の重さが胸にしみる。
妻は何故娘を呼んだのか、息子は何故死んだのか、
娘は何故父を許さないのか。
すべてがわかったとき、世界は“未来に向かって逆回転”を始めていく。

第2話「太陽のシール」
 「子供を産んでればって後悔しないかなあ」
終末に際して、子供を作るかどうか悩んでいた夫婦が、
迷いと決断の逡巡を通して、“答えの出し方”を探していく物語。
あえて言ってしまうと、最終的な決断など実はどうでもいい。
それよりも、そこに至る過程が本質になっている。
また、この話が間接的に最終話「深海のポール」に接続されている。

第3話「籠城のビール」
 「どうして逃げてるのかな、悪くないのに」
大衆の悪意に妹を殺された二人の兄が復讐をする話。
終末そのものとは直接関係のない話でありながら、
人間の悪意というものを考える上では非常に興味深い話。
誰も悪意を持っていないのに様々な気持ちが綯い交ぜになって
巨大な悪意の塊になってしまう過程と、
その悪意に振り回される人間を描いた佳作。

第4話「冬眠のガール」
「恋愛ってのは都合よく始まることもあるんだよ」
書を捨てよ、町へ出よう。寺山修二も言っているが、
まさにそれを描いた作品。
物語のために世界があるんじゃない。
世界を補完する装置として物語があるんだ。

終末のフール 総論
終末のフールは仙台の高台にあるヒルズタウンという新興住宅地を舞台にした、
終末の日常、まさに終末の過ごし方を描いた伊坂幸太郎の作品である。

終末論の基礎については以前に書いた終末論についての駄文を参照するとして、
http://seasidecity.ninja-web.net/text9.html
ここでは終末のフールでは何を描きたかったのかを簡単に書いてみて、
その後にひとつずつ作品を見てみよう。

繰り返しになるが、終末のフールで強調されているのは終末の日常である。
8年後に小惑星が地球に衝突することが判明して5年後の世界、
つまり残り3年で世界が滅びることがわかっている世界が舞台である。
終末に際しては一般的にアルマゲドン的な展開を見せるだろうから
終末の日常というものを描くのはおかしいという意見があるかもしれないが、
なんとなく的外れなものであるといえるだろう。
なぜなら、『われわれの、世界に対する態度は無限にあり、
終末を避けようと努力することも、終末に際して日常を営むことも、
絶望してあきらめることも、やけになって暴力に訴えることも、
それらすべては終末に対する態度のひとつに過ぎない』からである。
終末のフールはこの中で言うならば、『終末に際してやけになって
大暴れした後に、疲れてあきらめムードが漂ったから
日常生活を送ってみようかと思い始めた世界』に分類される。

それにつけても伊坂幸太郎はこの作品で何を描きたかったのだろうか。
私は終わりを区切られた世界において、巻き戻す日常を描きたかったのだと思う。
たとえば、末期がんで余命6ヶ月と宣告された人間は一体何をするだろうか。
映画『象の背中』の例を見るまでもなく、
大抵の人間はこれまでの人生を振り返るのではないかと思う。
身も蓋もない言い方かもしれないが、、人生のエンディングが見えてしまった以上、
人はこれまでのストーリーから記憶を引っ張り出して、
巻き戻してもう一度見直すくらいしかすることが思い浮かばないのだ。
反論はあろう。それについてはもうちょっと後で触れるね。
3年後、小惑星が地球に衝突する。
これは全人類が末期がんの告知をされたようなものだ。
ここで繰り広げられる日常の物語は必ずどこかで過去とつながっている。
それは、人が過去に生きる生き物であることと無縁ではあるまい。
終末のフールは、ヒルズタウンの住民たちが、終わりを区切られたために
真の意味で過去と向き合うことができるようになり、
過去と向き合うことで他者との関係を再構築する物語である、
と言い換えられるのではないかと思う。

「思い出があれば生きていける。世界が終わるまでは生きてやろう」
こうCROSS†CHANNELで太一が示した解に対して
「関係性があれば生きていける。世界が終わるまではいきてやろう」
ヒルズタウンの住民たちは別の解を用意したのだ。

こんなところが総論の感想。
切り結んだ関係性の思い出に生きるか、
思い出を軸に再構築した関係性に生きるか。
胃が痛いテーマではある。